問題が生じたことをどう察知するか

総合診療や家庭医療が必要ないという人は、そのニーズに気づいていない、という問題について

非常に同意します。病院の規模や役割によって生じる問題はさまざまです。総合診療的なアプローチでないと解決できない問題が生じない病院にいるか(そんな病院ないと思いますが)、問題が生じていることに気がついていないのではないかと思います。

では、私たちは問題が生じている、ということをどのように察知しているのでしょうか。

日本大百科全書には

一般に答えを必要とする問い、課題をいう。事象のあり方や生起の理由、原因などを「なぜか」と問うように、人間にはおのずと問いが生まれる。だが、問題は、文化、文明や主体の関心、探究心の程度によりさらに意識的となり、また、実用性を離れて純理論的となる。問題は答えを要求するが、一つの問題の解決は進んで新しい問題を生みやすく、ここに知識や認識の深化・拡大がみられ、さらに解決の方法、手段の確立、体系化により、問題は諸個別科学の分野を生んだ。

 哲学は、科学的問題や解決の方法の性格の解明と同時に、科学と哲学の問題の異同の明確化自体を重要な課題とするが、哲学的問題の対象が、世界、知識の可能性と限界、人間の生とその生き方などのように異なるに応じて、存在論(形而上(けいじじょう)学)、認識論、倫理学などの分野が分かれ、科学よりも普遍的、根源的、全体的な問いが予想される。

[杖下隆英]

とあります。

一般的には答えを必要とする問い、課題をいう。

問題を解決するとさらに問題が出てくる。まさに。

答えを必要としているかどうかはかなり主観的なのではないでしょうか。つまり、誰かにとっては問題が生じていると思わなくても、誰かにとっては問題が生じていると思う。

では、問い・課題が生じていると感じる人と、そうでない人の間にはどんな差があるのでしょうか。

個人的には感情の揺れ動き、とか、そんな感じなのではないかと思っています。