ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言

 

<フレーズ>

・相手の言うことをよく聞く

 -「今は何をしたいですか? 何をしたくないですか?」

 -待つこと。本人も相当もどかしく感じている。

 

・シンプルに一つずつ

 -たくさんのことを言われると混乱してしまう。

 

・考え方、出身、これまでの経験など 自分と同じ人はいない。そこに尊厳が生まれる

 

・Personed Centor Care

 -ケアを必要としている人と同じ目線の高さに立つ、と言うこと

 

・なんとなくおかしい、尊厳を持って扱われていない、と言うことは認知症でもわかる

 

認知症の診断 検査は「お願いするスタンスで!」

 

認知症は「暮らしの障害」なので、家族や介護者など本人を日頃からよく知っている方に生活の様子を伺うなどして総合的に判断が必要

 

認知症を子供扱いしない。本人の世界は連続しており、別に自分が変わったわけではない(なのに、周りは扱い方を変えてくる)

 

認知症の方の尊厳を失うケア(よくない状態を促進する)

 -子供扱いする、騙す、できることをさせない、無視する、急がせる

 

<感想>

認知症の方には時間をかけてゆっくり、丁寧に接する必要がある。

病棟で長い時間認知症の方と接する医療従事者は忙しいことも多く、なかなか本人たちにベストなケアを提供するのは難しいかも。

医療従事者以外のメンバーが病院内に入ってケアできるとよい。

トム・キットウッド(Tom Kitwood)の本も読んでみたい。

 

 

弥勒菩薩をみた

先日、京都に行く機会があり、弥勒菩薩を見に行きました。

ja.wikipedia.org

有名な広隆寺の"弥勒菩薩半跏思惟像"です。

仏像を含めた美術品を見るのはあまり得意ではないのですが(何を考えればいいかわからないので)、時間もあったし、人の勧めということもあり、見てきました。

拝観料は800円。薄暗い建物の中に入るとずらっと仏像が並んでおり、左から一つ一つ見てるような見ていないような速度で眺めていました。

解説がある像もあったので、解説を見てからまた像を見てみたり。

中央には例の弥勒菩薩半跏思惟像があり、その前には座れるように畳が2枚置いてありました。そこに正座して見る人もいました。

畳のせいで少し遠くから見ることになったのですが、薄暗い中、よーくよく見るとあることに気が付きました。

弥勒菩薩は口角が上がっているのです。

これは!と思い、他の像をぐるっとみてみましたが、微笑んでいるのは弥勒菩薩だけです。

パンフレットに書いてあったのですが、弥勒菩薩の像は、世の中の人をどうやって救済するかを考えている姿らしいですね。

それだけ難題を考えているのに微笑みを携えているところに、めちゃくちゃ感動しました。

表情が明るいことって大事ですよね。星野源も素敵になるにつれて口角が上がってきているし、なんとなく頬の肉のつき方で人ってわかる気がします。

弥勒菩薩は普段から口角が上がっている素敵な方なのではないかなと考えました。それか、人々の救済を考えてハッピーになっているか。

複雑困難症例を抱えて悩んでいても、弥勒菩薩のように微笑んでいられる自分でありたいと考えた週末 京都でした。

 

ちなみに大日如来(全ての始まりの神とされている方)の像は、無表情で、これはこれで悟りの極地だと思いました。

 

 

 

 

 

問題が生じたことをどう察知するか

総合診療や家庭医療が必要ないという人は、そのニーズに気づいていない、という問題について

非常に同意します。病院の規模や役割によって生じる問題はさまざまです。総合診療的なアプローチでないと解決できない問題が生じない病院にいるか(そんな病院ないと思いますが)、問題が生じていることに気がついていないのではないかと思います。

では、私たちは問題が生じている、ということをどのように察知しているのでしょうか。

日本大百科全書には

一般に答えを必要とする問い、課題をいう。事象のあり方や生起の理由、原因などを「なぜか」と問うように、人間にはおのずと問いが生まれる。だが、問題は、文化、文明や主体の関心、探究心の程度によりさらに意識的となり、また、実用性を離れて純理論的となる。問題は答えを要求するが、一つの問題の解決は進んで新しい問題を生みやすく、ここに知識や認識の深化・拡大がみられ、さらに解決の方法、手段の確立、体系化により、問題は諸個別科学の分野を生んだ。

 哲学は、科学的問題や解決の方法の性格の解明と同時に、科学と哲学の問題の異同の明確化自体を重要な課題とするが、哲学的問題の対象が、世界、知識の可能性と限界、人間の生とその生き方などのように異なるに応じて、存在論(形而上(けいじじょう)学)、認識論、倫理学などの分野が分かれ、科学よりも普遍的、根源的、全体的な問いが予想される。

[杖下隆英]

とあります。

一般的には答えを必要とする問い、課題をいう。

問題を解決するとさらに問題が出てくる。まさに。

答えを必要としているかどうかはかなり主観的なのではないでしょうか。つまり、誰かにとっては問題が生じていると思わなくても、誰かにとっては問題が生じていると思う。

では、問い・課題が生じていると感じる人と、そうでない人の間にはどんな差があるのでしょうか。

個人的には感情の揺れ動き、とか、そんな感じなのではないかと思っています。

Toxic Masculinityを意識した壮年男性のケア

個人的な経験として壮年男性患者とのコミュニケーションがうまくいかない傾向にあると思っています。

 

うまくいかないというのはトラブルになって自己退院されたり、検査方針を巡って口論になったりですが、そういった男性との間におこる問題の原因としてToxic Masculinityがあるのではないかと推察しています。

 

診察とうまく結びつけられないか考えてみます。

手を離さないこと

岡崎医療センターでは1年間総合診療科外来を担当していました。来る患者さんは健診異常から大きな病院で診断がつかなかった症状まで多種多様。色々な訴えを経験することができました。

1年間の外来を通して自分が重要だと気付いたことは、「めんどくさいと思っても診断がわからなくても手を離さない」ことです。

診察の前に気が滅入ることもありますが、診察の終わりにはできるだけ「また一ヶ月後に来てお話を聞かせてもらえませんか?」と言って自身の外来に来てもらうようにしていました。これはなんというか、覚悟がいります。でも、そうすると、繰り返される外来の中で新しい症状の出現や症状の規則性がわかって診断の手がかりになったり、本人の心の中で症状と折り合いをつけるプロセスを目の当たりにすることがあったりと、継続性の重要性を感じる出来事が何度もありました。

未分化な健康問題を抱える患者にとって、症状に共感している仲間と定期的に継続して関わることが癒しにつながると、指導医の授業の授業で教わりましたが、まさにその通りだと思いました。

そういえば初期研修医のとき、金髪でライオンみたいな髪型の強面の患者さんがいたのですが、毎月恐る恐る診療していました。(初回の診察で「待たせすぎや・・・!」と凄まれてヒエッてなりました。) 何回か外来でお会いした後、研修中に院外研修の期間があり、2ヶ月間別の医師に診察してもらうことになったのですが、それを告げると「なんや、寂しくなるなぁ・・・」と。意外な発言にびっくりしました。

当時の自分は、この現象が生じた理由を「病棟で会う7日間と、月に1回外来で会う計7日間では、出来上がる関係性が違うのでは?」と考察しました。その後、國松先生の「また来たくなる外来」を読んだときに、周期的に外来に来てもらうことにより、患者さんの中に軸が出来上がって、それが良い、みたいな話が書いてあって(多分)、これだよ!これこれ!と思った記憶があります。

つまり何が言いたかったかというと、問題を共有している仲間と定期的に会うことにより、医師-患者を超えた、いや、超えたは言い過ぎかもしれませんが、いわゆる医師-患者関係という名前でない関係が出来上がり、そこに癒しの力があるのではないかなと考えた、ということです。

 

 

DNAR用紙と終末期

そういえば、先日師長さんとDNARの用紙について話しました。

師長さんも看護師側のDNARに対する間違った理解があることについては問題に思っており、そこを差し置いて紙によるDNARを取得してしまうことで、適切な救命をされるべき患者に処置がされなくなることについては懸念がある。その一方で、管理者として病院が守らなければいけないルールに乗っ取って発言しなくてはいけないアンビバレンスな状態で、非常に悩んでいました。

倫理的な問題を含む難しい問題で、シンプルに解決できる方法があるとは思いませんが、一つ個人的に気になったのはカルテ内のDNARの紙が”終末期”の患者を対象としたものであるということです。

終末期の患者の定義についても一応解説がありましたが、個々の症例について、「複数の医師」が終末期と判断することが望ましい、としていました。僕たちも判断に苦慮しますが、少なくとも総合診療科で診る患者の多くは”終末期”ではないのではないかと思います。

認知機能低下がほとんどない、もしくは軽度な90代の高齢者の入院なんてザラですし、そういった方に終末期の患者対象のDNAR用紙を使うのは違和感があります。

但し、本人の考え方で心臓マッサージを含む心肺停止時に行われる処置を望まない方も当然いらっしゃって、その方たちの希望を叶えるために、DNARの用紙を使わずに心停止時DNARを表明することはあり得ることなのではないかと思いました。

なので、今後総合診療科としてできることは自分たちの中で終末期と考える患者を複数医師で議論し、その患者については用紙を用いて説明をして用紙を取得する。

そうでない患者についてはこれまで通りカルテ内・継続指示のところに心停止時DNARを記載することではないかと考えました。